沿革
昭和21年 | 中部日本書道連盟創立の動きがあり、当時「静岡県翼賛書道連盟」という組織があって事務的なことをしていた松田江畔氏宛に発会の通知が来て江畔氏出席。その席上で静岡県の参加有無を問われた。しかし会長ほか上部の役員は名古屋の役人と中日新聞の方で占められ疑問を生じ回答を保留。沖六鵬氏宅での「遊ぼう会」常連の青木幽渓、平岡朴斎氏、更に七丈南豊、桜井琴風、森田安次、望月祥堂、江畔氏らで静岡県教育会館に於いて静岡県書道連盟発起人会を開催。中部日本書道連盟の参加を見送り、全国初の県単位の「静岡県書道連盟」創立の芽生えとなる。 |
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昭和22年 | 5月11日 静岡県庁会議室で、「静岡県書道連盟」の発会式兼創立総会が行れ 「役員展」は「静岡県書道連盟同人展」として第1回展が、松坂屋で開催された。戦後大規模な展覧会であったので連日盛況。乞われて富士と相良で延長展が開催された。役員の七割の56名の参加、93点の出品であった。 11月に、全国に先駆けて県単位の書道連盟を結成したその意気込みを天下に示そうと「第1 |
昭和23年 | 「新春書初展」は「第1回県下・学童・生徒書初展覧会」として東・中部は松坂 |
以下主要行事別の沿革
「静岡県書道連盟展」 | いつから開催されているか定かではない。昭和25年2月に連盟展が開催の記事が「正鋒」という書道雑誌に載っている。毎年実施されたか判らないが、昭和40年以降は毎回開催されている。一時期移動展が開催された。県民会館、県庁西館で開催。現在は静岡市民文化会館で開催されている。記念展では作品集を刊行している。平成26年には、第59回静岡県書道連盟展が開催された。 |
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「夏期講習会」 | 「夏期講習会」の実施は、創立総会で開催を決議されており、開催されたようだが記録が見当たらない。昭和23年に森田安次氏の研究授業の参観。昭和27年に書初講習会。昭和33年奥山方広寺の暑中錬成会。昭和36年愛知県鳳来寺の研究会の記録がある。昭和41年梅ケ島温泉に32名。42年熱海西ホテルに35名。以後袋井、御殿場、吉田等で開催。昭和47年静岡市石部龍宮亭で開催以後本格的な講習会となっていった。中部、西部、東部の輪番制となり平成17年の西部遠鉄ホテルエンパイアでの「櫻井流翠氏の講演と席上揮毫」と「高木桂蔵氏」の講演に516名という驚異の参加があった。現在は例年三百数十名の参加を得て盛況裡に続けられている。 |
「静岡県書道連盟推薦教授資格認定試験」 | 通称「推薦教授試験」とか「推薦教授認定試験」と呼ばれています。昭和35年に書道塾を開く会員の増加に伴って資質の向上を図るため実施された。当初は理事会や総会の折に随時審査(交付条件が理事とあり当時物議をかわした)を行われていました。昭和40年からは総会後推薦書と作品一点提示して、役員の諸先生により認定されました。昭和49年からは、受験に楷書・行書・草書・臨書・仮名を条幅でという課題となり担当審査員を決め、事務局長がその取り扱いをしていました。昭和55年から三年間「推薦教授特別認定」として、県芸術祭委嘱作家・日展入選者・毎日書道展委嘱以上・文検合格者・高等学校書道普通免許状取得者等の古い実力者に資格を取り易くする特別認定の形をとったが数名しか申し込みが無かった。昭和59年から事務局取扱いから「推薦教授部」を設け現在のような試験内容になっています。近年静岡県書道連盟の役員は「資格認定試験」に合格者が好ましいとされ、実力者の受験が相次ぎ厳しい門となってます。 |
「静岡県書道連盟公募展」 | 昭和57年 広く県民一般より書道作品を公募し、本県の書道文化の昂揚をはかる。の趣旨の基に一回展が静岡市民文化会館で開催された。出品資格は、県内在住十六才以上の者とし、高校生・本連盟以上の役員をのぞくとした。応募数は1176点。賞は、大賞・準大賞・書道連盟賞・秀作賞・入選。準入選も設けられた。常任理事の輪番制審査員のより鑑別審査された。平成2年に改組。第9回展から賞は奨励賞のみとし、県芸術祭入選者の出品不可。同一部門に三回受賞した場合無鑑査とする、ただし他の部門には出品できるとした。以後若干改定したが大筋変更なく、県芸術祭の出品前の力ためしとされてきました。しかし年々レベルがアップして入賞者は県芸術祭の入選作に遜色ないとも言われています。応募数は千点前後を保持しています。 |
「会報」 | 連盟創立の昭和22年の8月20日に第一号が発行されている。青木幽渓氏が編集兼発行責任者。戦後物資不足で用紙の入手が困難であったが幽渓氏が役員をしている美声堂印刷所で多大の援助を得て発行にこぎつけた。内容は六鵬氏の巻頭言。南豊氏の同人展記、役員名簿、連盟規約が掲載されている。以後活版印刷や、ガリ版すり等であった。大きさも色々で年数回発行されていたようです。内容も連盟内部や書道界のニュースも掲載されていました。昭和55年から「会報部」が作らけれ、現在のように年二回定期的に発行されています。 |